2018年11月18日(日)水嶺湖ジャズフェスティバル(岐阜県大垣市 日本昭和音楽村)
<天元> 渡辺敦ts 木全摩子ds 柳川芳命as
岐阜県大垣市の南のほうの上石津町に、風光明媚な水嶺湖があり、そのほとりに「日本昭和音楽村」がある。大垣市の公共施設である。http://www.city.ogaki.lg.jp/0000002104.html
江口夜詩(えぐちよし)という日本の歌謡曲史に残る作曲家の記念館があることは十年以上前から知っていたが、立派な室内ホール、野外ステージ、音楽スタジオ、宿泊用コテージがそろっているとは知らなかった。そこでの水嶺湖音楽祭のシリーズがこの11月に開催され、ジャズフェスティバルは18日に行われた。
所長の岡田司さんと木全摩子さんのつながりから、岡田さんが出演を促してくださり、摩子さんから私に、私から渡辺さんに誘いの連鎖ができて<天元>で出演することになった。(ちなみに<天元>は、基本的にこの3人が中心となっている即興音楽集団で、メンバーはプラスティックである。)
ジャズフェスにフリーインプロビゼーション(曲もテーマも音楽的な決まり事も演奏の展開の筋書もない即興)をやるということは、他のバンドの方や聴衆にとって、きわめて異質な音楽に聴こえたことだろう。既成の音楽を再現する演奏ではなく、何も無いところからその場で音楽を構築する。音楽的な決まりごとが無いので、リズムもメロディもハーモニーも無視してよい。騒音とも出鱈目とも思われることもあるだろうし、前衛的な音楽に思われることもあるだろう。しかし、人類が音や音響に何らかの芸術性を感じ、最初に音楽的な行為をやったのは、フリーインプロビゼーションだったと思う。勿論楽器は現代ものとは全く違うプリミティブなものだが・・・。だとすると人類史上もっとも長い期間行われてきた音楽形態はフリーインプロビゼーションではないか?(根拠無し。想像だけの話)
デレク・ベイリーもそういうようなとらえかたでフリーインプロビゼーションを演奏していたと思うし、ジャズというフィールドで言えば山下洋輔氏も50年近く前に「PROTO-JAZZ宣言」でそういうようなことを言っていたと思う。(我田引水的解釈だ。)
きっとそういう音楽的行為を面白がるDNAが現代人にも伝授されてるはずだ。それを「難しい」「わからない」「つまらない」と感じるのは文明化された感性のせいなのか?「学習しないと音楽はできない」「先人のあみだした高度の技術を受け継いだ者こそが素晴らしい音楽家である」ということにしてしまった近代文化の弊害か?
<天元>の演奏を聴き終えた司会の方が、「ちゃんと終われるんですね」と言われた。演奏の終わり方も決めていないのだが、我々は終わりの合図を出すこともアイコンタクトをしなくともピタッと終われる。それは、共演者の音を聴いているから、と言うか、音の向こう側にある演奏者の意思をつかもうとしているからである。それは、普段から楽譜などの「記号」や「シナリオ」に頼らず、音を出しているその人の意思とコミュニケーションしているからであり、これは考えようによっては素晴らしい音楽的行為ではないだろうか。しかし、演奏中いつもいつもコミュニケーションが成立しているわけではなく、意思断絶していることもある。(成立しているか断絶しているか、それすらわからないことも多いが・・・)それでは駄目じゃないか、と言われるかもしれないが、もともと人間関係とはそういうものではないか?エスパーじゃないから。