2019年8月12日(月/振休) 岐阜 本郷町キングビスケット
・ミレマ<坂巻めぐみg/vo 村木シンスケg 石崎マキds)>
・Shigebeer (and no wife) g/vo
・河合渉g+柳川芳命as
・みみのこと<スズキジュンゾg/vo 西村卓也b 志村浩二ds>
あるラジオ番組で、某書家がこんなことを言っていた。<いろいろな芸術の中で、とりわけ書は、「上手」「下手」というものが評価の上位にありがちだが、これは間違っている。いくら達者に書けていても、心の無い書から何の感動も生まれない。>
達者な演奏技法を身に付けたミュージシャンでも、心に訴えかけるものが感じられない人もいる。また、今まで誰もやったことのないことを探して表現しようという発想はユニークだが、だから何?と言いたくなるような人もいる。
この日の4組のユニット(Shigebeerさんはソロ)は、達者ではないかもしれないが、それぞれ心に迫るものが感じられた。関節が外れたような演奏の中で琴線に触れてくる歌、情動の扉を荒々しくノックするようなサウンドパフォーマンス、陶酔感の中で眠っていた狂気を呼び覚ますようなアンビエントな演奏、酩酊状態でたどたどしく歩き、走りつつもドライブ感のある演奏・・・など、もう死語になっているかもしれない「ヘタうま」の魅力を発揮している表現者たちだった。
不協和音がある、ピッチが揺らぐ、拍がずれる・・・こういう音楽にぞくぞくする人にとっては、たまらなく面白いライブだったと思う。ヘタうまというのは、最終的には「うまい」のであるから、この道を追求するのは並大抵ではないと思う。達者に演奏できるものの、みみざわりのいい、鳴っていても鳴っていなくても何ら意識しなくなるようなヘタな音楽は、いっぱい氾濫している。
たまにしかやらないが河合渉さんとのデュオ歴は、今世紀に入ってからなので、結構長い年月になる。いつもながら河合さんの出す音の気配に、会場の空気が漆黒に塗られて支配される。この日、河合さんはエレアコギターを使ったが、「ギターを弾く」という感覚よりも「アンプリファイされたギターから引き出せる音響を空間に撒き散らす」という感覚の演奏だった。フィードバックによるハウリングなど、奏者が完全にコントロールしきれない状態で暴発する音での演奏は、偶発性に満ちている(勿論そういう奏法ばかりに河合さんの演奏が終始していたわけではないが・・・)。ゆえに、それぞれの音に応酬し、たたみかけていく共演というより、お互いに相手の音の背景にある漠然とした気配に浸りながら自分の音を放っていくような共演だった気がする。そこには、共演者の音に束縛されない解放感があると同時に、孤独もある。自分が何をやっているのか迷子になることがある。これもまた即興演奏における共演者との関係性の一つなのだろう。それを楽しめばいいのだな。