2019年11月14日(木)名古屋今池「海月の詩」
NOUS:柳川芳命as 菊池行記electronics 小林雅典el-g
今年の9月7日に、特殊音楽バー「スキヴィアス」にて、このメンバーで一度やっている。その手ごたえから、継続的にやってみようということで、NOUS(ヌースと発音する)と名前を付けた。バンドにせよシリーズにせよ、名前を付けるということは、このメンバーで継続的に演奏活動していくことで何かしら音楽に発展性が期待できる、という仮説が立ったということである。
前回9月のときには、3人で3通りの組み合わせでデュオをやり、その後トリオをやったが、今回はバンドということもあり、2ステージとも3人で何も決めず、全即興でそれぞれ35分ほどやった。(個人的にあえて言えばセカンドセットのほうが)、いろいろな情景が走馬灯のように浮かんでは消えていくような変化のある演奏になったと思う。
録音を聴き返してみて、演奏中には気付かなかったことや音が多々発見できた。実に摩訶不思議な音楽である。電子音の無機質(ネガティブな意味ではない)な音の響き、幾何学的な音の形、ときに具体に聴こえる音の織目に、人間的・有機的・情動的なサックスの音、その両者の世界を行き来する電気ギターの音が絡みつく。いろいろな音の響きから受ける心象が目まぐるしく変わる。調和しているのだか、していないのだか、何とも捕らえ様のないコラージュになっている。反応し合っているのだか、関りを拒絶しているのだかよくわからない。この不可解さや違和感がいい。頭で理解できてしまう音楽は耳ざわりがいいだけである。3人のかかわり方は、演奏場面によって個々ばらばらだったり、2対1だったり、三位一体だったりする。聴く人はとても自由に聴ける、とも言える。バンドとしての音の全体像につかみどころの無さを感じるならば、誰かの出している何かの音だけを楽しんでもらえばいい。
フリーインプロヴィゼーションは、演奏の出来不出来の評価はメンバーによって違うものだと思う。(自分はこれまで演奏後に、今日の演奏の誰の何が良かったとか、悪かったとかいう反省会をしたことが無い。)反省はするが、それは自分がどうだったか?という自己評価でしかなく、自分以外のメンバーがどうだったかを考えたことがあまり無い。その人がいいと思って出した音なんだから、他人がとやかく言うものではないと思っている。その人の音に自分がどう対置したかということがむしろ反省点だと思う。こういう、いかにも個人主義的なところが、作曲されたものをメンバーでパートに分かれて再現演奏する音楽と違うところである。
ただ、決して共演者は誰でもいいというものでもない。自分の場合、たいていの人とは一緒に共演できる。(演奏以前の問題でその人との関わり方が難しい人は除くが・・・)しかし、一緒にやっていて何か波長が合うとか、つながりの深さを感じる人とは、おのずと共演回数は増える。ただ、何がそうさせているのかというのはよくわからない。
菊池さん、小林さんとは、何かわからないけど一緒に演奏していて、自分が次に出す音(それは無限にあるのだが)に示唆を与えてくれる。しかもその示唆は、社交辞令的常套句でないところがいいのである。いつもありきたりの相づちを打ってばかりの人との会話がつまらいように、ときに何を言い出すかわからないような人のほうが面白いのと同じである。これは集団即興演奏を会話に例えれば・・・、ということであって、二人が普段の会話において、突拍子もない支離滅裂なことを言い出す人では決してないことを申し添えます。誤解無きように・・・。
NOUSの次の演奏会は、来年1月11日に名古屋「海月の詩」で、4月25日に大阪の「難波ベアーズ」です。以後よろしくお願いします。