・2019年12月8日(日)近江八幡 サケデリックスペース酒游舘
・2019年12月15日(日)大津 Baar Musica TIO
・2019年12月19日(木)名古屋 TOKUZO
■語り:平松千恵子
■柳川芳命(sax / harmonica / ocarina) Meg Mazaki(drums / percussion)
2018年の夏からこの3人で「怪談と即興音楽」のシリーズを行ってきた。18年の夏には小泉八雲の「怪談」から短編3作品、18年冬には「忠臣蔵と四谷怪談」(四谷怪談はそもそも忠臣蔵外伝であるということをこれを機会に知った。)、19年夏に小泉八雲の「むじな」と三遊亭圓朝原作の「牡丹灯籠(お札剥がし)」、そして、今回の冬公演には「(その後の)牡丹灯籠(仇討ち)」という作品を取り上げてきた。(作品の選択は語りの平松さん)
これだけ回数の公演のレビューをその都度書いてきたので、前に書いたことと同じような内容になるかもしれない。まあ、そう変わるものでもないと思うが・・・。
小泉八雲の怪談での異界の情景、四谷怪談の残虐と恐怖のシーンや激情の露出に比して、牡丹灯籠では血生臭いシーン、突出した怒りや恨みが暴発するような場面はほとんどない。明快な喜怒哀楽の感情と音楽との関連性は、演者も観者もイメージを共有しやすく、演奏もやりやすい。それに比して牡丹灯籠では、内に秘めた意思、思慕、せつなさ、はかなさ、企み、義理と人情という表面に露出されにくい微妙な心の動きが物語の底流を流れている。それをどうやって音にするかというのはなかなか難しかった。微妙であるがゆえに、演奏のやり様は何通りも考えられる。一方で、微妙であるがゆえに、各場面の演奏ごとに大きな変化を出しにくいとも言える。それで今回は、日頃メインにしているアルトサックスの他に、ソプラノサックスや、オカリナ、クロマチックハーモニカを加えることで、音色の醸し出す雰囲気に変化をだそうと思った。自分はあまり楽器の持ち替えは得意ではなく、その日の演奏は楽器一つにしたい性分なのだが、今回はチャレンジでもある。
しかしながら、管楽器は基本的に旋律を奏でるもので、旋律や調(しらべ)と喜怒哀楽の感情とは深くリンクする。まあ、悲痛で絶望の場面でカリプソのようなメロディーが流れるというマッチングも逆療法として面白いのかもしれないが・・・。しかし、明るい場面では長調、悲しい場面では短調というのでは、あまりにも短絡過ぎるし、それなら一層作曲してしまって演奏したほうがリスクが少ないのでは?と思ったりもする。が、そういうことをやっている人たちは山のようにいる。今回の企画では、あくまでフリーインプロビゼーションで臨むことに独自性と意義をもっていたい。
また、日本の古典的物語をテキストにするのであれば、和楽器(琵琶や琴、尺八・・・)のほうが、刷り込まれた既存の美意識によって雰囲気がマッチすることは当然だが(近頃はそういったイベントは掃いて捨てるほどあるな。)そこをあえて和楽器に依存せず、サックスやドラムセットを使うことにもこだわりがあった。
酒游舘での初演で、メインのアルトサックスを使わずソプラノサックスを使ってみた。これはこれで物語の幻想的で内省的、黄昏れた気持ちや牧歌的な風景描写には合っていたと思うが、自分には(そこまでソプラノに精通していないこともあり)表現の幅に限界があると思い、2回目のTIOと最後のTOKUZOではメインのアルトに戻した。高い音域のオカリナは、息の入れ方によって能管のような音色と不安定な音程が出るので、幽玄で不気味な情景を表すのに役立った。クロマチックハーモニカのメランコリックな響きと音階は、アンニュイな黄昏感を表すのに役立った。
脚本のどこで音を入れるかというのは大枠は決めてあったが、上演場面では弾力的に扱った。また、使う楽器の選択もその都度、これだ、と閃いたものを選んだ。3回の公演で、いろいろな試みができ(そうでなければ即興でやる意味はないと思っていたので)、それぞれのやり様でその効果の違いも楽しむこともできた。ひとつ結論的に言えることは、演奏において「間(沈黙)」が生み出す心理的な効果の大きさを認識できたことである。ものを言う以上に、黙ることが感情を伝える効果が大きいと言ってもいい。Megさんの間の取り方、使う楽器、音の選び方、ここから自分が学んだことも多くあった。
物語と音楽とではどちらがメインか?と問われればやはり物語である。あくまで音楽は伴奏である。だが、伴奏が物語にもたらす効果は非常に大きい。そう思ってテレビドラマや映画を観る(聴く)と、いかに先人が様々な試みをしているかよくわかった。一方で、それによって我々の意識がすでにステレオタイプ化されているとも言える。BGM恐るべし、である。