先月から『Art Crossing #3 特集 高木元輝』を少しずつ読んでいます。どの記事も興味深く読んでいますが、インタビューや思い出の会話など、高木さん自身の言葉が載せられているのを読むと、自分の記憶の中の高木元輝さんが蘇ってきました。決して数多くはないですが、共演させてもらったり会って言葉を交わしたりしたことを、自分なりに書き留めておきたいと思いました。自分も何か思い出をまとめて寄稿すればよかったな、という後悔もしています。以下駄文ですが、読んでいただければ幸いです。
【高木元輝というフリージャズ奏者との出会い】
自分がまだサックスを始める前の1976年頃、フリージャズたるものをLPレコードで聴き漁っていく中で、日本のフリージャズは欧米のものよりストレートに自分の中に入ってきました。ジャズの音楽的ルールを取り払って自由な形態で演奏する音楽では、どこか共感しあえるような、情感といったようなレベルでつながっているものがあるからでしょうか。
高木元輝さんは生演奏に触れるより前に、『アイソレーション(富樫雅彦とのデュオ)』や『オリジネーション(土取利行とのデュオ)』のLPで聴いて、その凶暴なサウンドや独特の間から生まれる緊張感が好きでした。息つく暇もなく吹きまくるフリージャズサックス奏者の中で、高木さんの演奏は、溜めて、溜めて、じらして、じらして、そして凶暴に爆発する吹奏、情念漲る断片的な音の塊を空間にぶつけるような吹奏に、たまらない魅力を感じたものでした。
EEUで残した『コンクリートボイセス』というLPは通信販売で入手しました。まだ二十歳ぐらいの時でした。セロニアスモンクやスティーブレイシーの曲も入ったA面、片面1曲のライブテイクを収めたB面を聴きましたが、それ以前に聴いてきた高木さんの演奏とはちょっと感じが違って聴こえました。すでに情念溢れた攻撃的なフリージャズから脱皮している感じを受けました。
高木さんの生の演奏に最初に触れたのは、77年夏、京大西部講堂でのミルフォードグレイブス来日コンサートでした。共演したのは、近藤等則、高木元輝、阿部薫、土取利行でした。5人での演奏中、ミルフォードが、おまえ、今、入れ、もう出ろ、というような細かい指示を4人のミュージシャンにしていたので、個々のミュージシャンの演奏を長くじっくり聴くことはできませんでした。しかし、高木さんについては、レコードで聴いたような激しさがありました。
EEUとペーター・ブロッツマン、ハン・ベニンクのデュオとのジョイントコンサートが、名古屋納屋橋のヤマハホールで開催されたのは、80年の春だったと記憶しています。期待感をもって足を運んだことを思い出します。この時、EEUのベースは吉沢元治さんでした。高木さんはほとんど(全てだったかもしれない)ソプラノサックスでの演奏でした。
稚拙なリスナーであった自分には、高木さんは「浮いている」と感じました。豪快で奔放なブロッツマン、思いついたら何でもやる生粋の自由人のベニンク、解放的に前へ前へと突進する近藤等則、柔軟なスタンスで共演者と交わりあう吉沢元治の中にあって、高木さんはその合奏の流れをよそにひたすら自分の音楽をやっている、という風に自分には写りました。かつてのレコードで聴かれた凶暴に爆発するサックスに期待した自分は、当てが外れた気分でした。
【高木・ダニーデイビスとの初共演】
高木元輝さんは自分には雲の上のミュージシャンでしたが、1984年2月に突然共演する機会を得ました。ダニーデイビスさんと高木さんとのデュオがツアーで名古屋に来るということで、前座で(あわよくばトリオで)吹かせてもらえることになりました。場所は名古屋女子大小路にあるラッシュライフという店でした。高木・ダニーのデュオ演奏の前にソロで吹くのだろうと思っていたら、当日、3人それぞれのソロ、高木さんたちのデュオ、そしてトリオというメニューになりました。3ステージもやるのだから、ソロは各自10分~15分程度だろうと今なら考えますが、ライブ慣れしていない当時の自分は20分もソロで吹きました。高木さんやダニーさんは10分程度のソロだったというのに・・・。演奏の内容も大人と子どもほどの違いでした。高木さんと同じステージを踏むということで、かなりいきがっていたところもあったのでしょう。まだ駆け出しの二十代の若造でした。トリオでは二人がゆったりしたブレスで語り合う中、せっかちに軽薄に喋りまくるような自分の吹奏に、自分の器の小ささを思い知りました。終わってからは雑談ばかりで、今日の演奏がどうだった、などという野暮な話題はありません。きっと高木さんは、今後会ったとしても自分のことなど思い出さないだろうな、と思いました。
【岐阜ギャラリーK&Mでの共演】
ところが、高木さんと共演する機会はその2年後に再び訪れました。1986年3月、岐阜のギャラリーK&Mというスペースに高木さんは単独で来られ、当時よく共演してきたイトウカズヒト、竹内梓という二人のバイオリン奏者と共演するというものでした。今度は共演慣れしている二人がいるので、いささか心強い思いがしました。また、前回のラッシュライフでの反省を生かして演奏しようと臨みました。
このコンサートの数日前に、突然高木さんから電話がありました。何事かと聞いてみると、ソプラノサックスのバンドレン3番のリードを2枚買って当日持って来てくれないか、とのことでした。二つのことに驚きました。リードぐらい自分で買って持って来てよさそうなものだろう、ということと、もう一つは、バラで2枚? 2枚のリードがハズレだったら?ということを考えないのだろうか、ということです。一般にリードは10枚一箱で売っており、当たりのリードはその中でもさほど多くないものですが・・・。
コンサート当日、岐阜駅に到着した高木さんを車で会場に乗せていく役目を引き受けました。会場のギャラリーまで30~40分はかかる道のりを、助手席に高木さん乗せていきました。金華山の近くを通ったとき、
「柳川君、あれは岐阜城だよね。岐阜城って誰が作ったの?」
今なら、織田信長と正解を言えますが、その頃は城などに関心がなく、知識が乏しかったので、
「齋藤道三ですかね」
などといい加減なことを言いました。しばらくの沈黙の後、高木さんは、
「・・・織田信長じゃなかったかな?」
と言われました。試されたのか?と思いました。会話はそこで途切れました。
「バンドレンの3番、2枚買っておきましたよ。」
と言うと、
「バンドレンはいいね。根元から先までのカットのカーブがね、ほんとになだらかなんだよ。」
とおっしゃる。リコだのラボーズだのバンドレンだのリードの銘柄はいろいろありますが、当時はほとんど違いが分からなかった自分にとって、さすがだなと感心しました。
高木さんは、その2枚のリードを演奏会場に着いて両方吹いてみて良いほうを選ぶでもなく、一枚だけ使って、あとの一枚はケースにしまわれました。なるほど、達人はリードなど選ばないのだな、と妙に感心しました。
適当にリハーサルというか各自が音出しをしてから本番までの間、高木さんは姿を消しました。本番まで時間をもてあます中、人と喋ったり一緒に食事をしたりすることを嫌って一人でいたいという気持ちは、自分もそうなのでよくわかりました。
高木さんの演奏は、ここでも凶暴とは程遠く、優しく穏やかでした。その音には包容力を感じました。ところで、このコンサートのチラシには、出演者一人一人の短いメッセージが載せてあります。高木さんのメッセージはこうです。
音楽はハートとハートのダンス。ハートのダンスに生き、ダンスのハートに生き、 愛のダンスに生き、愛のハートに生き抜く。
目を疑いました。これがあの高木さんの言葉か?と・・・。「愛」とか「ハート」とか「ダンス」とかの俗な言葉が、高木さんから出てこようとは思ってもみませんでした。自分は高木さんというミュージシャンを誤解していたようです。
【小杉・高木とディスロケーションの共演】
時代は90年代に入ります。自分はディスロケーションという電子音響とサックス、それにビジュアルパフォーマンスが加わるバンドで演奏するようになりました。この時代にノイズミュージックが台頭してきたという認識が自分にはありました。このバンドでも、大音響で攻撃的な電子ノイズの洪水の中で、サックスがフリークトーンでシャウトする、といった演奏をしていました。ときにはアンビエントで静かな演奏もやりますが・・・。
1990年8月、名古屋ICAスタジオでディスロケーションと小杉武久、高木元輝とが共演する機を得ました。
小杉さんは、ライブエレクトロニクス、ボイス、バイオリンをたまに、という配分でコンサートに臨まれました。この日は長時間の枠の中で、各自が出入り自由に即興で音を出す(表現する)というやり方で行いました。高木さんの楽器はテナーサックスのみだった気がします。朗々とスケールの大きいブローで、音数は少なく、ゆったりした吹奏でした。けれど、少し吹いたかと思うとすぐにやめ、引っ込んでしまう。てっきり電子音響による演奏が気に入らないのかと思ったのですが、このコンサート以前に小杉武久さんとのデュオが名古屋河合塾のホールで行われたときには、小杉さんのライブエレクトロニクスと共演されているので、そうとは言い切れません。高木さんは演奏していて、「これは自分のやりたい音楽ではない」と思われたのでしょうか・・・。
この日の打ち上げでは、小杉さんと高木さんは日本酒を酌み交わし、我々ディスロケーションのメンバーも同席しました。このとき高木さんはこんなことを個人的に自分に話されました。
「柳川君、僕はね、サックスらしい音を出したいんだよ。」
確かにこの日の高木さんも、以前の岐阜での演奏も、とりわけテナーサックスの音は豊潤で、優しく、心に響いてくるものでした。サブトーンがまた心地良いのです。もう以前の「アイソレーション」の頃のような前衛サックス奏者の高木さんではないのだなと改めて思いました。それは後退ではなく、より音楽の真髄に近づこうとする姿勢だと思いました。攻撃的なフリークトーンで圧倒しようとする自分のアルトサックス演奏を揶揄されたのだろうか?いやいや、単に僕はそういう音楽に向かっているのだよ、という思いを語られただけだろうか・・・。深く考えると落ち込むので、高木さんは高木さん、自分は自分と割り切ってこの言葉を受け止めました。当時自分は30代半ばでした。このときの高木さんの言葉は、60代半ばの今になってようやくわかったような気がしています。しかし、今の自分はもう高木さんが亡くなられた齢を超えてしまっています。
【金田俊一さんとの共演にあたって】
この名古屋ICAスタジオでの共演からちょうど1年後、福島の涅雅(ネガ、漢字が間違っていたら済みません)という店で、金田俊一さんとアルトサックスデュオをやる機会がありました。金田さんは高木さんからサックスを学んでおられる方でした。このコンサートを控えて金田さんは、私と共演することになったと高木さんに話されたそうです。そのとき高木さんは、
「柳川さんね、あの人の演奏は速いからね、金田君はゆっくり吹けばいいよ」
と、金田さんに言われたそうです。これもまた自分には考えさせられる言葉でした。金田さんに対しては、自分らしい吹奏をすればいいよ、という助言であったとは思いますが、ただスピード感を追うことばかりが演奏じゃないよ、と、またもや自分を揶揄されたのではないかと感じました。しかし、今になって振り返ってみると、自分が高木さんなら同じようなことを言うだろうなあ、と思えます。やはり高木さんは自分よりずっと前方を歩んでおられるのです。
【その後、亡くなるまでの思い出】
名古屋ICAスタジオ以来、高木さんと共演することはありませんでした。しかし、チャンスがあれば高木さんの演奏を聴こうと思っていました。
1995年5月に松坂にある崑崙舎(こんろんしゃ、漢字が間違っていたら済みません)で、高木さんが庄子勝治さん、一楽儀光さんと演奏するという話を聞いて、車を飛ばして現場に向かいました。高木さんは最後にソロで曲を吹かれましたが、それはそれは情感溢れるメロディーとテナーサウンドでした。あれは何という曲だったのでしょう? 演奏後休憩する食堂で、高木さんは準備されたスプーンをよそにのけて、本場のマナーでインドカリーを片方の手で食べておられました。
年代ははっきりおぼえていませんが、名古屋本郷の聖家族に高木さんが来て、バンドをバックに吹くということで聴きに行きました。バンドの編成は、エレキギター、エレキベース、ドラムスというものだったので、この編成のバンドでどんな吹奏をされるのだろうと興味津々でした。ですが、高木さんはこのバンドのやっている音楽(フュージョン?)からは完全に浮いていました。数フレーズ吹いてはすぐやめてしまいます。バンドのメンバーは、そもそも高木さんがどんなサックスを吹く人なのか分かっているのだろうか?と疑わしくなるほどでした。サックスの存在を度外視して自分たちの曲を演奏している感じでした。なぜこのバンドで高木さんが吹くことになったのか? 終演後、楽器を片付けている高木さんに「バンドとは別にソロでやってほしかったです」と、たまらず言いました。高木さんは「ごめんね」と言った後、何も言われませんでした。何かわけあって、このステージに立たれたのかなと思いました。
最後に高木さんの演奏を聴いたのは、愛知県一宮のプレゼンチでの豊住芳三郎さんとのデュオだったと思います。年代はしっかり覚えていませんが、2000年を過ぎ晩年かその1年ぐらい前だったかもしれません。長時間立った姿勢での吹奏が厳しかった感じがしました。しかし、音はみずみずしさがありました。無理して吹く感じではなく、自然体で歌っているような・・・。豊住さんとは長い年月共演を重ねてきただけあって、お互いがお互いを解放し合っていて、意気投合というようなレベルではない深い関係が感じられるデュオでした。終演後、高木さんのテナーのマウスピースが、それまで長く使っていたベルグラーセンのエボナイトからメタルに代わっていたので、そのことを尋ねてみました。グレゴリーのマウスピースだと言われました。
「高木さんのラーセンの音、好きでしたよ。」
と、言うと「ラーセンね、あれも良かったけど、ここ(口元を指して)がきついでしょ。」と言われた。長時間同じ姿勢でいると体が固まると言って、ときどき体を揺すぶったりされていました。
これが、高木さんと会った最後でした。
2022年6月23日

写真は、1984年2月25日 名古屋女子大小路「ラッシュライフ」にて、高木元輝さん、ダニーデイビスさん、柳川。